フランス語読解教室 III

アクセスカウンタ

zoom RSS ジャンケレヴィチ『死とはなにか』(2)

<<   作成日時 : 2011/09/28 20:17  

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 [注釈]
 
 *non-sens : これは文脈にふさわしい訳語を考えるしかありませんね。misayoさんの「不条理」というのも、いいかもしれません。
 *Pluto^t avoir ve’cu : ここは、後者を選ぶよりは「むしろ」ということですから、une ve’ritable vie, une existence de’fini d’amourのことです。
 文末の内容に関しては、語られていることが当たり前すぎて、かえってその論理が見えづらいかもしれません。試訳を参照ください。

 [試訳]
 
 死とは命の条件であるのだろうか?
 
 死ぬことは、生きてあることの条件そのものです。死こそが、生から意味を奪いながらも、そこにある意味を与えるのだ、と多くの人が言いましたが、私もその列に加わることになります。死は、命に意味を与える意味ならざるものなのです。ある意味を与えながらも、その意味を否定する意味ならざるもの。それが、短く苛烈な生にあって、はかなく熱い生にあって、死の役割が明らかにするものです。そんな生において、力と強度を与えるのが死なのです。それは逃れることのできない二者択一なのです。私たちはともすると生の激しさと同時に永遠をものぞみます。でもそれは思考不能なことであり、人間にはでき過ぎた虫のいい話で、人間の身分に相応しいものではありません。
 ですから、私たちに許された二者択一とは、こうです。はかない、けれども真実の、愛のある命。そうでなければ、果てのない、愛もない、まったく命とは呼べない、永遠の死のようなもの。もしこうした二者択一が示されたら、私の考えでは、後者を選ぶ人はほとんどいないでしょう。むしろ、たとえ夏のひと日であっても、蜻蛉のように果てることを選ぶでしょう。というのも、こうして見ると、長いも短いも同じことだからです。たとえ私は命を失わなければならないとしても、少なくとも命を経験しているはずです。そうでしょう。命を失わなければならないということは、それをすでに生きたということですから。

……………………………………………………………………………………………
 今回も、また本の話になりますが、池澤夏樹『春を恨んだりはしない』(中央公論新社)を読み、夏休み明けの大学の授業で紹介もしました。仙台若林地区に叔母夫婦が住んでいた著者が、何度も被災地に入り、物資の運搬などにも手を貸しながらまとめたルポルタージュでもあり、文明論としても読める一冊です。少しだけ引用しておきます。
 「自然には現在しかない。事象は今という瞬間にしか属さない。だから結果に対して無関心なのだ。人間はすべての過去を言葉の形で心の内に持ったまま今を生きる。記憶を保ってゆくのも想像力の働きではないか。過去の自分との会話ではないか。」(p.24)
 言葉という、精妙な、けれどもか細い糸を通じて過去と繋がっていなければ、私たちは今この時を十全に、ゆたかに生きることはできません。そのことを忘れて、転変する社会状況に適合することに、あるいは未来に設定された目標をのみを見つめること、私たちは文字通り「我を忘れて」いるのではないか。そんなことを思いながら、同書を読んでいました。
 文芸誌『新潮』10月号に掲載された、古井由吉・平野啓一郎の対談「震災後の文学の言葉」も、相前後して大変興味深く読みました。内容に関しては、hiokiというなでツィートしましたから(http://twitter.com/#!/hioki)、ここではくり返しません。興味のある方は、お手数ですが、そちらをご覧下さい。
 さて、次回からは、つい最近「ジェンダー」という言葉を巡って議論が沸き起こった、フランスの「教科書」問題に関する論考を読むことにします。今週末には皆さんの元にお届けするようにします。Shuhei



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
ジャンケレヴィチ『死とはなにか』(2) フランス語読解教室 III/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる