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フランス語読解教室 III
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 フランス語中・上級者を対象に、もう一段高い精度の読解力を身につけてもらうことを目的としています。
 できるだけ多様な文章をご一緒に読みながら、フランス語を読む楽しみを少しでも味わってもらえれば、これにまさる喜びはありません。
 テキストご希望の方は smarcel@mail.goo.ne.jp までご一報下さい。
 Bonne lecture !
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ジャンケレヴィチ『死とはなにか』(2)

2011/09/28 20:17
 [注釈]
 
 *non-sens : これは文脈にふさわしい訳語を考えるしかありませんね。misayoさんの「不条理」というのも、いいかもしれません。
 *Pluto^t avoir ve’cu : ここは、後者を選ぶよりは「むしろ」ということですから、une ve’ritable vie, une existence de’fini d’amourのことです。
 文末の内容に関しては、語られていることが当たり前すぎて、かえってその論理が見えづらいかもしれません。試訳を参照ください。

 [試訳]
 
 死とは命の条件であるのだろうか?
 
 死ぬことは、生きてあることの条件そのものです。死こそが、生から意味を奪いながらも、そこにある意味を与えるのだ、と多くの人が言いましたが、私もその列に加わることになります。死は、命に意味を与える意味ならざるものなのです。ある意味を与えながらも、その意味を否定する意味ならざるもの。それが、短く苛烈な生にあって、はかなく熱い生にあって、死の役割が明らかにするものです。そんな生において、力と強度を与えるのが死なのです。それは逃れることのできない二者択一なのです。私たちはともすると生の激しさと同時に永遠をものぞみます。でもそれは思考不能なことであり、人間にはでき過ぎた虫のいい話で、人間の身分に相応しいものではありません。
 ですから、私たちに許された二者択一とは、こうです。はかない、けれども真実の、愛のある命。そうでなければ、果てのない、愛もない、まったく命とは呼べない、永遠の死のようなもの。もしこうした二者択一が示されたら、私の考えでは、後者を選ぶ人はほとんどいないでしょう。むしろ、たとえ夏のひと日であっても、蜻蛉のように果てることを選ぶでしょう。というのも、こうして見ると、長いも短いも同じことだからです。たとえ私は命を失わなければならないとしても、少なくとも命を経験しているはずです。そうでしょう。命を失わなければならないということは、それをすでに生きたということですから。

……………………………………………………………………………………………
 今回も、また本の話になりますが、池澤夏樹『春を恨んだりはしない』(中央公論新社)を読み、夏休み明けの大学の授業で紹介もしました。仙台若林地区に叔母夫婦が住んでいた著者が、何度も被災地に入り、物資の運搬などにも手を貸しながらまとめたルポルタージュでもあり、文明論としても読める一冊です。少しだけ引用しておきます。
 「自然には現在しかない。事象は今という瞬間にしか属さない。だから結果に対して無関心なのだ。人間はすべての過去を言葉の形で心の内に持ったまま今を生きる。記憶を保ってゆくのも想像力の働きではないか。過去の自分との会話ではないか。」(p.24)
 言葉という、精妙な、けれどもか細い糸を通じて過去と繋がっていなければ、私たちは今この時を十全に、ゆたかに生きることはできません。そのことを忘れて、転変する社会状況に適合することに、あるいは未来に設定された目標をのみを見つめること、私たちは文字通り「我を忘れて」いるのではないか。そんなことを思いながら、同書を読んでいました。
 文芸誌『新潮』10月号に掲載された、古井由吉・平野啓一郎の対談「震災後の文学の言葉」も、相前後して大変興味深く読みました。内容に関しては、hiokiというなでツィートしましたから(http://twitter.com/#!/hioki)、ここではくり返しません。興味のある方は、お手数ですが、そちらをご覧下さい。
 さて、次回からは、つい最近「ジェンダー」という言葉を巡って議論が沸き起こった、フランスの「教科書」問題に関する論考を読むことにします。今週末には皆さんの元にお届けするようにします。Shuhei


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ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』(1)

2011/09/15 11:18
[注釈]
 
* l’existence de quelqu’un : あとの言い換えからすると「誰かが存在したこと」existence は、文脈によっては「生活」ほどの意味になることもあります。「実存」となるのは、かなり特殊な文章においてです。
 * la moindre ide’e : moindre に定冠詞がついていますから、ここは最上級表現です。何度か出てきたように、最上級表現にはときに「譲歩」の意味が込められることがあるので、注意が必要です。
 * Alors, il me reste pour tout viatique ce message : 死という事実は人智を以てしては計りがたい。「だから」私たちにはメッセージが残される、ということでしょうね。il reste...は、非人称構文です。ここの viatique は、secours indispensable の意味ととりました。以前どこかでジャック・ラカンの「生誕と死は思考の埒外だ」という趣旨の言葉を読んだ記憶があります。ここで Janke’le’vitch がいう「メッセージ」とは、そうした謎に向き合うための「ヒント」のようなものなのでしょうね。

[試訳]

 死とは、取り返しのつかない、やり直しようのないものでありながら、この出来事はある人の生存を、その人が生きていたという事実を永遠に封印してしまう。それは、誰にも代わることのできない、滅びることのない、打ち消しようのない事実です。それはメッセージです。もちろん、死者は死んだままです。ですが、このメッセージの滅びることのない性質のうちに、私は、人間にとって超自然的な、説明不能な、考えられさえしないある要素を見ています。でも、実のところ、それはたぶん大変単純なものでしょう。ですが、私たちはそれをどう考えればよいのかまったくわからない。というのも、そこで問われているのはまったく別の次元のことだからです。ただ、私たちはそのことに納得がゆかない。なぜなら、私たちは経験的な思考の型にこだわっているからです。なにか確かなものを期待しているからです。是が非でも、なにか具体的なものを思い描きたいのです。なぜなら、問われているのはまったく別次元の事柄であるのですが、そのことが私たちにはまったく飲み込めないし、考えもつかないのです。ですから、そこにはペテン師がつけ入る隙がまだあるのです。そうだからこそ、私には頼みの綱としてこのメッセージが残されています。人が生きていたという事実、単純な神秘でありながらも、それ自体深い神秘に包まれた事実が。ただ、私たちは、問いを自らに課し、こうしたこと全ての理由を問うほどの十分知的な能力を備えているのですが、この謎に答えるに十分な能力は持ち合わせていないのです。ただ問いを自らに課すことができるだけなのです…。
……………………………………………………………………………………………..
 料理に苦手意識のあったぼくの母は、毎日の献立を考えるのが一番の苦労だ、とよくこぼしていました。ぼくの場合は毎日のことではありませんが、今度は教室で何を読もうかな、と頭のどこかで思いを巡らせている時間は結構長いかもしれません。
 これは是非教材に、と思う文章に思い至らない時は、やはり今の自分の関心に引きずられてテキストを選ぶこととなります。この夏、炎暑に耐えながら久しぶりにマルセル・プルースト『逃げ去る女』(『消え去ったアルベルチーヌ』)を入念に読み返していました。帰らない人となった恋人の不在を嘆き、苦しみ、やがて忘却に至る男のお話です。同作品を考える上でジャンケレヴィッチ『死』を読み、その入門書でもある<<Penser a` la mort ?>>にも目を通しました。いかがだったでしょうか。肩ならしにしても、みなさんには易しすぎたかもしれませんね。misayoさん、ウィルさん、shokoさん、Mozeさん、皆さんの訳文もそれぞれ正確なものでした。
 Mozeさんのおっしゃるように、古東哲明の著作は、「図らずも」今回のテキストの予習になっていたかもしれませんね。古東氏の著作楽しんでもらえたのなら、なによりです。ぼくも、なにかのさだめでこの世で会えなくなってしまった人の姿を夢で見かけることが時々あります。日本の和歌の感性、フォーレの歌曲に倣うなら、夢での邂逅を目覚めて哀しまなければならないのでしょうが、ぼくも淡い喜びを噛みしめています。
 それでは、次回は同テキストを最後まで読むことにしましょう。28日(水)に試訳をお目にかけます。その頃には名残の暑さもようやく翳りを見せていることと思います。

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Danie`le Sallenave (3)

2011/07/27 15:32
 [注釈]

* (…) par quoi j'acce`de au sens, a`la compréhension.: quoi は、cette morte feinte, cette transmutation を受けています。つまり、自己の中心を空にし、小説の登場人物にこのいのちを仮託することによって、読者である「わたし」は、「意味に、理解に近づける」
* chacun porte une te^te multiple sur ses e'paules 読書によって、多様な想念を秘めた数知れない頭をこの首に据え替える、ということでしょうか。

 [試訳]

 登場人物によって今度は読者である私が、大いなる変容の国に近づくこととなる。登場人物によってこそ、私自身も想像上の存在となることを余儀なくされ、小説が世界の経験となる。小説を読みながら、私はこの身を預け、自分のことを忘れる。自分の身に引きつけ、我を忘れ、自分を赦す。登場人物に倣らい、なぞらえ、私は他者となる。アラゴンが歌っていたように。「存在するだけでは、人として物足りない。人であるためには、他者にならなければ。」(演劇/小説)
 登場人物を媒介にして他者となる。自分自身となるためにも、他者となる。自分自身を留守にして、自身を捨て去ることによって、自身の人生がなんであるかが理解できる。サルトルが読者の「寛容」と呼んでいたものは、このことである。このかりそめの死、ひとときの変容によって、私は意味に、理解に近づくことができる。
物語のおかげで、一人ひとりは幾千の人々の思いを抱くことができる。魂は開かれ、心は新たになる。
…………………………………………………………………………………………………
 masayoさん、明子さん、Moze さん、それぞれ訳文ありがとうございました。難しいという声もありましたが、みなさんよく読めていました。試訳を参考にしてもらって、また疑問点などあればいつでもお尋ねください。
さて、このテキストを読んで、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』のなかの有名な一節を思い出さずにはいられませんでした。こんな一節です。
<<Le seul ve'ritable voyage, le seul bain de Jouvence, ce ne serait pas d’aller vers de nouveaux paysages, mais d’avoir d’autres yeux, de voir l’univers avec les yeux d’un autre, de cent autres, de voir les cent univers que chacun d’eux voit, (...) et cela nous le pouvons avec un Elstir, avec un Vinteuil, avec leurs pareils, nous volons vraiment d’e'toiles en e'toiles. >>(La Prisonnie`re)
 「唯一の本当の旅、唯一の青春の源泉、それは新しい景色を求めて旅立つことではない。それは、他の目を持つこと、他者の目、百人の他者の目で世界を見ること、そうした他者のひとり一人が見ている世界、あるいはそうした他者の一人ひとりでもある世界を見ることである。そうしたことが私たちには、ひとりのエルスチール、ひとりのヴァントゥーユ、彼らのようなものと共になら可能となる。私たちは、本当の意味で、星から星に飛んでゆけるのだ。」(『囚われの女』)
 エルスチール、ヴァントゥーユは、それぞれ画家と作曲家。主人公は二人の作品から創造行為の本質を学び取ってゆきます。
 また、坂口安吾の「作家論について」という小文も、これはおもに書き手の立場から綴られたものですが、作家である「僕」を読者に置き換えれば、そのままサルナーヴの議論につながります。
 「凡そ人間は、常に自分自身すら創作しうるほど無限定不可決な存在である。(…)我々は小説を書く前に自分を意識し限定すべきではなく、小説を書き終わって後に、自分を発見すべきである。(…)
 僕は、できるだけ自分を限定の外に置き、多くの真実を発見し、自分自身を作りたいために、要するに僕自身の表現に外ならぬ小説を、他人の一生をかりて書きつづけようと思っている。」(坂口安吾全集 14, ちくま文庫, p.320-321)
 それでは、これでしばらく夏休みとさせてください。ここのところは、大阪の大気もいくぶんクールダウンしていますが、お盆をすぎてから容赦のなくなった昨年の酷暑を思うと油断はできません。どうかみなさんもお身体には気をつけて、この夏をお過ごしください。9月を迎えたら新学年のテキストをお送りします。そのテキストの試訳は、9月14日(水)にお目にかけることにします。休み中にまた皆さんの近況報告などもお聞かせ下さい。
それから、宿題のテキストはこの週末までにはお届けしますね。それでは、Bonnes vacances, chers amis !
 Shuhei


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Danie`le Sallenave (2)

2011/07/15 09:47
 [注釈]

* issu de l'expe'rience imaginaire... : 厳密にいうと issu はle personnage を説明しているのですが、登場人物の出自である「二つの世界の間」の説明のように訳出しました。
* une proposition de sens a` achever : ここは登場人物の役割を語ったくだりですから、sens は、「意味」としました。というのも、読者の参加を待って、はじめて「完成されるべき」ものですから。
* c'est au lecteur d'agir. : c'est a`... de + inf. 「こんどは、……が…する番だ」書き手からバトンを手渡された読書の役割に、以後焦点が当てられています。ですから、la pense'e もそのことを意識して、具体的に訳出した方がいいでしょう。

 [試訳]
 
 文学という夢を見るには、虚構の事物よりなる想像的な現実を、たとえひとときではあっても、信じることに同意することが前提となる。ホメロスの「英雄」であれ、バルザックの登場人物であれ、あるいは肉体も性も持たず、ただ声だけの現代小説の登場人物であれ、彼らは「二つの世界の間」に存在している。すなわち、書き手の想像の、あるいは現実の体験から生まれた世界と、彼らの物語の「模倣的な」構成から生まれた世界との間である。そうした世界から、登場人物は、未完の意味の提示として読者の方にやってくる。この意味を完成されるために書き手自身が、虚構の存在、思考の人形(ひとがた)に変容しなければならなかった。つまり、語り手となる必要があった。そして語り手自身も、語りの対象に課する秩序において構成されるのであった。作者とは、ある意味、自身の小説の登場人物となった者のことであり、作者もまた「二つの世界の間」、すなわち、虚構の世界と、まだしばらくそこに属している現実の世界との間で生きはじめるのである。これに倣って、今度は読者がそこに身を流し込むこととなる。
 本を読む間に私たちをとらえる、虚実の狭間でのこうした往還こそが、劇的な、あるいは叙事的な物語の本質である。虚構は、すべてが物語創造のためであり、読者の幸福のためであり、小説世界が動くためのものである。なぜならここにこそ本質があるからだ。そこでバトンが手渡され、今度は読者が動き出す。頭の中は、小説のあれこれのこと、物語(情念)のことですでにいっぱいになっている。けれども、そうした表象を構成して初めて、私たちは自身の声をそこに聴き、「私たちの謎を明らかにする」ことを試み、希望することができるのだ。様々な原因を理解するとともに、理性のフィルターを通すことによって情念が鎮められる。
………………………………………………………………………………………
 みさよさん、明子さん、Mozeさん、厳しい暑さの中、訳文ありがとうございました。ぼくは先週から5時から30分ほど歩く朝の散歩を始めました。年ですね。授業がないときなどは、日差しを避けるあまり一日中部屋に閉じこもることにもなりそうなのです。それはなんだか悲しい図なので、朝の散歩を始めました。早朝5時の空が薄暗くなってしまうまでは続けるつもりでいます。みなさんも、なんとか酷暑の夏お元気でお暮らしください。
 さて、先週ここに名前を挙げた古東哲明氏の新刊『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)のお話をすることにします。
古東氏の名前を知ったのは、『<在る>ことの不思議』(勁草書房)というハイデガー論がきっかけでした。といって、ぼくはハイデガーという20世紀ドイツの大哲学者のなにを知っているわけでもありませんでした。ただ、氏の文章の魅力に惹かれ、その大哲学者の難解な思想に躓くことなく、楽しくページを繰っていました。
でも、こんな一節は記憶に残りました。「今ここに在ること」の本質をとらえれば、幼くして命を失った子供の命も、その生きた年月の厚みにかかわらず、ただそれだけで十全に完結していると言える。こんな意味合いの一節でした。そうです。この一節をぼくはこの大震災に際して反芻していました。そんな折に、古東氏の新著が出たのでした。
「この瞬間刹那の豊麗さに撃たれること」の秘密を、ハイデガーはもとより、山口誓子、手塚治虫、小椋桂、タモリが赤塚不二夫に宛てた追悼文まで引いて、意を尽くして説いた時間論です。実は、第三章は「水中花 プルーストの瞬間復元法」と題されたプルースト論ともなっています。
 ぼくのお気に入りの富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」という涼しげな一句も楽しむことができます。機会があれば、手に取ってみてください。
それでは、次回はサルナーヴの文章を最後まで読むことにしましょう。宿題を用意しますが、その後は夏休みとしましょう。7月27日に試訳をお目にかけます。

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Danie`le Sallenave (1)

2011/07/07 16:56
 [注釈]

* les actions qu’organise la fable. : この action は、「筋立て」のことでしょう。試訳では、「物語」としました。
* des simulacres de mots : これは、le personnage の言い換えです。あとに la figure de papier とも表現されています。
* la vie me^me et l’a^me de l’auteur de se couler vivantes... : ここはみなさん正しく読まれていましたが、sont oblige’es を補って読みます。
* Et qui, (…), le sauve... : Et (la figure de papier) qui... sauve l’auteur と読めます。
* notre lecture hallucine’e : これは、croire a` l’existence d’un personnage を意味しています。
* Le personnage existe... d’une existence fictive. : 「虚構の存在によって…存在する」ということでしょうね。

 [試訳]
 
 このことは何度繰り返してもかまわない。つまり、小説と登場人物のあいだには断つことのできないつながりがあるのだ。登場人物を軽んずることは、小説を損なうことにしかならないのではないか。カタルシスも登場人物がいなくては起こりえない。それは謎であるけれども、事実である。私たちには、投影が、転移が、同一化が必要なのだ。フィクションが作用するためには、私たちが登場人物の存在を信じていなくてはならない。虚構が構成する物語は、登場人物において集約されているからである。小説というテキストの働きそれ自体が登場人物を望んでいる。つまり、テキストの真実は言葉でできた幻影を経ねばならず、書き手の命そのものや魂も、書き手を表すページの上の人型に、生き生きと流れ込まなければならない。そして、その人型が同時に書き手を救うのである。
 そうすると、そんな私たちの幻影にまどわされた読み方は、登場人物の中に虚構の存在を見ることを忘れ、テキストの外でもその存在を信じることを強いることになるだろうか ? そうではない。登場人物はおそらく生きている。けれども、それがどんな命を生きているのか、私たちはまたよくわかっている。それは幻から生まれた命だ。ただそれだけのこと。登場人物は存在している。けれども、それはフィクションにおいて虚構の存在を生きているのだ。リア王が舞台の上で「生きている」のが、演劇的存在であるのと同じことだ。

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 今回は、試訳をお目にかけるのが遅くなってしまいました。ぼくのような、ITに疎いものは、パソコンのトラブルは本当にこたえます。状況の悪化や、不意のトラブルにも比較的冷静に対処できる方だと思うのですが、PC相手の場合は全く勝手が違うようです。結局あたらしいパソコンを買う羽目になりましたが、思い通り動かなくなったPCからの「データーの移行」とやらに、サポートの電話にかじり付きながら、仕事の空いた時間を利用しながらですが、3日ほどかかってしまいました。Ouf ! です。

 今日は古東哲明氏の新著を紹介するつもりだったのですが、これは次回に譲ることにします。

 日本と同じく、細菌による食品汚染や、入試問題の漏洩と、フランスでもあまり明るい話題がないのですが、ひとつ、喜ばしいできことがありました。France3という国営テレビ局のカメラマンと記者がアフガニスタンで取材中拉致され、1年7ヶ月拘束されたままだったのですが、その二人が今週半ば無事解放されました。
 海外で活動する援助団体職員やジャーナリストが長い間にわたって自由を奪われた後に、無事解放されるという出来事は、これまでにもフランスで幾度かありました。その度に思うのですが、身の危険に長期間耐え、解放された人々が記者会見などの場で口にするのは、家族、政府関係者、それからここに至るまで自分たちに声援を送ってくれた人々に対する感謝の言葉だけです。けっして私たちのように「ご迷惑とご心配をおかけして申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を口にすることはありません。今回解放された記者も、この経験を通じて <<mille fois motive’>> 「(ジャーナリストとして)ますます活躍する気持ちになった」と、毅然と答えていた言葉がとても印象的でした。
 日本の「世間様」というのは、人々を萎縮されるものなんだなあ、と、そんなことを改めて思いました。巷でますます濫用されている「…いただきます」という言葉は、コワイ世間からとにかく身を守るための痛ましい修辞なのでしょうか。スーパーで値引きされたお弁当を買った折にも、「お箸付けさせていただいてよろしいですか」なんて、聞かれます。本来なら、買い手のぼくが、「お箸付けていただけますか」と頼むべき場面だと思うのですが…。
さて、次回は、par le filtre de la raison. までとしましょう。7/13(水)に試訳をお目にかけます。
 昨日今日(6/26)は、大阪の暑さも一段落していますが、どうかみなさんもお身体には気をつけてください。
 Shuhei

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ロラン・バルト『明るい部屋』(2)

2011/07/04 09:13
 [注釈]
 
* convertie a` quoi que ce soit : ここは、convertie と女性形になっていますから、私の「教育」によって母が「なのものに転向させられようとも」という譲歩の表現となっています。
 * l’espace me^me de l’amour, sa musique. : 後者は「愛の音楽」ととりました。そういえば、この写真は、シューマンの「曉の歌」にも喩えられていました。
 * Si, comme l‘ont dit tant de philosophes...si le particulier...si, apre`s..., moi qui n’avais pas procre’e’...: これらの si は、対比を表現しています。まとめると、こうなるでしょうか。
 la Mort ; l’espe`ce ; l’universel ; dialecque <--> engendre ma me`re dans sa maladie ; particuralite’ ; indialeque
 * apre`s s’e^tre reproduit comme autre que lui-me^me : ここは、個人はその誕生前にすでに「転生」を果たしているのであるから、その個人は死によってその「個体性」を乗り越えてゆく、つまり、「普遍化」される、ということでしょう。
 * ma mort totale, indialecque. : 死によって個体性が普遍性に昇華されるのが「弁証法的な死」そのような死と対極をなすのが「全的な、非弁証法的な私の死」。

 [試訳]

  ブレヒトにあっては、かつて私が高く評価していた逆転によって、母親を(政治的に)教育するのは、息子であった。けれども母がどんな教えに転向しようとも、私は一度として母を導いたことなどなかった。ある意味では、私は一度も母に「話を向けたこと」など、母を前にして、母に向かって「議論をした」ことなどなかった。母と私は、口にこそ出さなかったが、言葉が軽やかに無意味であること、イメージが宙づりにされていることが、愛の、愛の音楽の空間そのものであるべきだと考えていた。私の内面を司る強力な「法」であった母を、私は最後には、女の子として生きていた。私はそんなふうに、私なりのやり方で「死」を解決した。多くの哲学者が言ったように、「死」が種の厳然たる勝利であろうと、個は普遍の充実のために死すのだとしても、元の存在とは別のものに生まれ変わった後に、個人が死んでも、そのことによって個は否定され、乗り越えられたのだとしても、子供を生むことのなかった私は、母の病において、私の母を生んだのだった。母が死んで、私には上位の(種の)生けるものの歩みに歩調を合わせる謂れはなかった。私の個別性はけっして普遍化されることはないであろう(理想を言えば、書くことによって以外は。以後それを書く計画が、私の人生の唯一の目的となるはずであった)。私は自分の全的な、非弁証法的な死を待つばかりであった。
  これが「温室の写真」に私が読み取ったことである。
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  先日、橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社新書)を大変興味深く読みました。仏文学を少し勉強して来たものとして、キリスト教のある程度の理解は欠かすことはできません。それで、「キリスト教入門」の類いの書物をあれこれ読んできましたが、「あまりにもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中」(p.4)で生きて来た日本人にとっての「躓きの石」を的確に捉え、これほど明快に解き明かしてくれた書物には、これまで出会ったことがありませんでした。
  たとえば、「隣人愛について」―、

[大澤](...)律法のゲームから愛のゲームへの転換が、新約とともに実現するわけです。
  その愛のことを、「隣人愛」という。(...)罪深い人とかダメな人とかよそ者とか嫌な奴、そういう者こそが、「隣人」の典型として念頭に置かれていて、彼らをこそ愛さなくてはならない。(p.195)
[橋爪](...)隣人愛のいちばん大事な点は、「裁くな」ということです。人が人を裁くな。
なぜかと言うと、人を裁くのは神だからです。(...) 律法はね、人が人を裁く根拠に使われたんですよ。だから、なくした。イエスが言っているのはそういうことでしょう? (p.198-199.)
 
  そのほかにも、「原罪」「預言者」「贖罪」「精霊」など、こうしたキリスト教理解の上で外せないテーマを、それぞれ明快に論じあっています。
また、キリスト教と、政治体制・資本主義・自然科学との関係などにも話は及んでいて、
射程の広い西洋文明論としても堪能出来ます。
  文学、哲学、絵画、音楽に興味のある方のみならず、「近代社会」をこの島国で生きているわたしたち一人ひとりにとっても、とても有意義な書物です。
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   Moze さん、「君が代条例」についてのご意見、ありがとうございました。大変心強く思いました。フランス語を読むことを楽しみとしているわたしたちも、そう言えば、立派な「マイノリティー」。そうした存在を邪険にしないことは、生物多様性を保護する観点からも、この社会にとって、そう悪いことではないはずですよね。
 そういえば、ご紹介した放送の中で辺見さんが、大震災で被災した高齢者こそ手を尽くして救わなければなせない、「もう十分生きたのだからいいだろう」といことには断じてならない、と語気を強めて語っている姿が印象的でした。明子さんはいかがでしたか。
  それでは、次回からは、先日フランス・アカデミー入りを果たした作家・評論家 Danie`re Sallenave <<Le Don des morts. Sur la litte’rature>>(1991)を読むことにします。今週末にはテキストをお届けします。Shuhei
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ロラン・バルト『明るい部屋』(1)

2011/06/02 16:18
 [注釈]

 * dans la Mort a` reculons : a` reculons は、文字通り「あとずさりして」ということです。だから、過去を遡って死を控えた人間の前方には、自らの過去が伸び広がっているわけです。
 * c’est alors aussi que tout basculait...: ここの basculer ですが、プルースト『ソドムとゴムラI』「心の間歇」の <<Bouleversement de tout ma personne>>を踏まえていると考えられます。
 * (de l’ordre des photos) : ordre は、なかなか厄介な多義語なのですが、ここはParti de sa dernie`re image
(...) arrive’(...) a` l’image d’une enfant とありますから、「順番」のことでしよう。
 * elle e’tait devenue ma petite fille : 写真の中の5歳の女の子のように、ということでしょう。


 [試訳]

 つぎのことも私の思索から外すことは出来なかった。つまり、時間を遡ることによって、私がこの写真を発見したということ。古代ギリシア人たちは後ずさりながら死の世界に入っていった。彼らの前に横たわっていたのは、彼らの過去だったということになる。そんなふうに私も一生を、私のではなく、私が愛していた人の一生を遡ったのだった。死を控えた夏に撮った母の最後の写真(ひどく憔悴していたが、凛として、私の友人たちに囲まれ、家の玄関の前で座っている)から始めて、75年を遡り、私はひとりの女の子の写真に辿り着いた。子供の持つ、あるいは母の、子供でもある母の、至高善に向けて私は目を凝らす。確かに、私は母を二度失った。最後の疲れ果てた母と、母の初めての写真、私には最後の写真に写った母と。けれども、まさにその時すべてが転倒し、ついにその存在そのままに、私は母を見出したのだった。
「写真」のこうした(写真の新旧による)運動を、私は身を以て体験した。母は晩年、私が母の写真を見つめ、温室の「写真」を発見する少し前、とても衰弱していた。私も母の衰弱を共にしていた(活動的な世界に加わったり、夜外出することも出来なかった。どんな社交もうんざりだった)。母が伏せている間、私は母を見守り、母のお気に入りのお茶用のボールを口元の運んで上げた。母が飲むには、カップよりも具合が良かったからだ。母は私の小さな娘となっていた。母が初めて撮った写真のままの、本質的な子供とひとつになっていた。
………………………………………………………………………………………………….
 今日は、少しフランス語とは直接かかわりのない話題に触れることにします。こうした「政治的」なお話を好まない方もいらっしゃると思いますが、どうかご勘弁下さい。
 元タレント弁護士の橋下徹さんのことはみなさんも多分ご存知だと思います。今大阪府民の強い支持に支えられている大阪府知事です。彼がトップを務める「大阪維新の会」という地域政党が、今その多数を占める府議会で「国旗掲揚・国歌斉唱時に公務員に起立・斉唱を義務づける条例」を制定しようとしています。「君が代を歌わないことは許されない」ということを条例で定めようというのは、全国初めての取り組みだそうです。ぼくは、政治的にはまったく微温的な態度しか取れない軟弱フランス屋ですが、大阪維新の会のこの取り組みをただ黙って見過ごすことはできませんでした。
 先日、教職員労働組合の方が多数を占めると思しき集会に、生まれて初めて参加しました。その場では、「日本人を止めろ! 日本から出て行け! 北朝鮮で教師をやれ!」と、割れんばかりの大音響で右翼団体からたっぷり罵声も頂戴しました。帰り際、ディドロを専攻しているK先輩とばったりお会いして、夕食をご一緒してもらいました。
 以下は、地域政党大阪維新の会に宛てたぼくの「ご意見」です。ちょっとためらいはしましたが、実名で小文を送りました。どうか「非国民」だといじめられませんように。
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 音の調べに声を預ける、本来はどこまでも自発的であるべき「歌う」という行為を、その人の身分を奪ってでも強制する。こんな粗暴な権力の行使があるでしょうか。それを知事は子供たちが主体であるべき、教育の場で行おうとしている。そんなことは、許るされるべきではありません。
 公立学校の教師たちは、市民からの税金によって給与を得ている公務員であるから、組織の論理にしたがうべきだ、そう仰るでしょうか。先生たちの主体性が、組織の論理の前で踏みにじられる。知事、ことは教育にかかわることです。教育は、マネイジメントの論理だけで機能する人間の営みではないことぐらいは、知事もお分かりのことと存じます。健全な批判精神を持って大勢に順応しない、そんな、数少ない先生方の主体性を「数の、組織の論理」によって潰してゆけば、教育の本質は蝕まれ、ただ円滑に機能するだけの空虚な組織体だけが残ることになります。そんなところからは、「空気」だけには敏感に反応出来る、ロボットのような臣民が生まれても、健全な公共意識を持った子供は育ちはしないでしょう。
 たしかに近代国家の誕生に際して、教育と軍隊が手を携えて「臣民」を育成して来たことは歴史的な事実です。けれども、あの悲惨な戦争を経験した私たち日本人は、軍に代表される組織の論理を、時には相対化し、批判する、聡明な子供たちを育む教育を、戦後実践して来たはずです。
 「長いものには巻かれろ」、そんな小賢しい論理が大手を振る場に、学校をしてはなりません。今では少数となり、それでも苦悩しながら「立たない、歌わない」大人の姿を見て、歴史とは、公共とは、個人とはどうあるべきなのか、そうしたことをめぐって考えを深める子供たちをこそ、私たちは育てなければならないのではないでしょうか。
 橋下知事、どうか多勢の力に溺れずに、風通しのよい社会で育つべき子供たちのことを考えて下さい。
…………………………………………………………………………………………………….
 あの国際的な学習到達度調査(2002)で明らかになった「学力低下」騒ぎに触れてのこんな一文に、深く頷かずにはいられませんでした。「『みんなと同じことを最優先に配慮し、みんなと違うことを心から恐怖する子供』を作り出すシステムを徹底に精緻に高度化して来た長年の努力の成果が『世界一勉強しない子供たち』なのである。(...)みんながそうしているからそうしている(...)そういう骨の髄まで他者志向の子供たちを日本社会は作り出して来た。」(p.34,38. 内田樹『街場の大学論』角川文庫)
大阪も肌寒い水無月を迎えました。明子さん、misayoさん、Mozeさん、雅代さん、それから「教室」をのぞいてくれているみなさん、どうか体調を崩されないようお身体には気をつけて下さい。それでは、次回6月15日に断章29を最後まで読むことにします。

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「日本から発せられた黄信号と赤信号」(3)

2011/05/18 10:17
 [注釈]
 
 * De la convivialite' : ここは、筆者の自著の宣伝です。イリイチの思想の紹介で触れられていた les outiles … trop gros ne sont plus conviviaux の convivial の名詞形が convivialite' です。ここでは「有用性」と訳してみました。
 
 このLe Monde の記事を読むのは今回で3回目ですが、みなさんよく読めていました。上記以外には特に付け足すことはありません。それで、shoko さんからお尋ねのあった前回扱った箇所について補足しておきます。
 * ce slogan a servi d'excuse a` des gouvernements libe'raux : des gouvernements は「自由主義が建前の各国政府」を意味します。日本政府も、かつて銀行救済やりましたね。
 * parce que nucle'aires et trop grandes et trop dangereuses pour fallir : 元の記事で確認しましたが、ここの et … et は誤りではありません。もちろん、仰るように nucle'aires sont trop grandes et trop dangereuses と書くことも可能です。ただ、このように parce que 以下が完全な S+V+Cになっていない例は珍しくはありません。
 * nulle part, pas plus en France qu'au Japon... : ne pas plus.… que の構文です。ex. Hier soir, je n'ai pas bu plus que d'habitude. ちなみに、ぼくは下戸です。でも、気の置けない友人たちと飲みに行ことは嫌いではありません。
 * L'argument de l'efficacite'... re'uni... le capitalisme et le socialisme. : re'unir という動詞は必ずしも a' をとらないようです。要は、mettre ensemble を意味します。ここでは、とくに、与野党一緒になって原発を推進して来たフランスの現状が仄めかされているようです。

 [試訳]
 
  私たちは、何をなすべきなのだろうか。まずはこの二つの警戒信号の意味を理解すべきだろう。『有用性について』は、様々な道具の、すべての人々のための世界を建設するために有用なあらゆるものの、その大きさを制御しなければならないことに気づかせてくれるであろう。それに気づけば、こうした道具も、私たちの目的であるこうした公益に役立つものであり続け、そうした道具によって私たちは有用性を行使し続けることができる。様々なイデオロギーがもつ「なになに主義」というものは、人類に役立つどころか、人類の破壊につながるが、そうした生の実践は「なになに主義」とは別の次元に位置するものである。つぎに、命より大切なものなどないことを理解して、方向転換をこうした別の共生の仕方へと導いていかなければならない。そうすれば、3.11に日本から発せられた黄色と赤の警戒信号は何かの役に立つはずである。
.......................................................................................................................................
 それでは、次回は6月1日に <<La Chambre claire>> 29. の試訳をお目にかけます。
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「日本から発せられた黄信号と赤信号」(2)

2011/05/06 10:47
 [注釈]
 
 * leurs dirigeant sont remercie's par des salaires e'poustouflants. : ここは、受動体の現在形になっていること、かなり嫌みの利いた e'poustouflant という形容詞を考えると、remercier は、文字通り「感謝する」と取った方がいいのではないでしょうか。
 * nucl'eaires et trop grandes et trop dangeureuse pour fallir : ここで et が二度使われているのは誤植ではありません。たしかに、nucle'aires, trop... et trop...とすれば 最初の et は必要ありませんが、ni...ni... と同じだと考えられます。
 * les outils (...) ne sont plus conviviaux : この convivial は、少し特殊な意味で facilement utilisable par un public non specialise' 。
 * ここは、巷にあふれる「想定外」という言葉が示すように、nulle part 以下は「否定」と捉えるべきでしょう。
 * L'argument de l'efficacite' pour la croissance... : ここも文脈からすると、原子力発電の「効率性の議論」のことでしょう。
 * notables barde's de vert : ここの barde' は、 barde' en de'coration などと同じ用法です。環境への配慮を「売りに」しているとでも言えばいいでしょうか。ただし、ニコラ・ユロは、つい先日、2012年の大統領選への立候補表明とともに、原発廃止論者に「転向」しました。

 [試訳]
 
 2001年の9.11.が政治的なテロリズムの表明であったとすれば、3月11日の放射能汚染の恐怖は、一種の産業主義のテロリズムであろう。それはまた2008年の金融ショックと関連づけられもするだろう。当時余りにも巨大であるがために潰せない(too big to fail)銀行の役割が強調されていた。それは、大企業と同様、銀行の拡大、投資、利潤追求の果てしない競争の結果であった。2008年、先のスローガンは、銀行の再浮揚を理念的に正当化出来ない自由主義者たちの政府の言い訳に利用されたのだった。国の金庫には社会保障に充てるお金がなかったのもかかわらず、大銀行のためとあればお金は捻出され、それは驚くべき利益と結びついたし、銀行のトップたちも呆れるほどの高給によって報われることとなる。巨大すぎるがゆえに潰せないような銀行は存在してはならない、とアンドレ・オルレアンは言った。原子力があまりに強力で、あまりに危険であるがために潰せないのであれば、そうした巨大企業も、発電所も、本来は存在してはならないのではないか。これが赤信号である。
 こうした見方はイリイチ(1973年)の思想と完全に一致する。イリイチは、あまりに巨大な道具はもう使い物にならないと考えた。つまり、そうしたものは私たちの役に立つどころか、私たちを奴隷にしてしまうのだ、と。今般の事故をテロと言ったのは、日本ででもフランスででも、原子力の選択が議論になったことがなかったからだ。経済成長のための有効性の議論が、自由主義イデオロギーのエリートたちや社会主義イデオロギーのエリートたちの寡頭政治を、資本主義や社会主義と結びつけた。通常の稼働状態であれば環境に対する影響が少ないことを口実に、ニコラ・ユロのような環境を売りにした著名人も原子力発電を支持して来た。3.11は、こうした共謀に対する赤信号である。
…………………………………………………………………………………………
 
 前回ここで話題にした辺見庸さんですが、4/24のNHK「こころの時代」という番組に出演されていました。3.11. 後、辺見さんがどのような思考を、世界の感受を、いわば「課せられた」のかを語っていました。大震災後メディアで語られた言葉の中で、もっとも胸に響く言葉の数々を聴くことが出来ました。
 ちょうど「外国語学習とはなにか」という小文を書きあぐねていた時だったので、こんな発言が耳に残りました。「言葉というものは単なる道具ではない。言葉というものは、人に対する関心の表れだと思う。」
 デジタル放送に移行されている方は「オンデマンド」でこの放送をご覧になれますが、それが難しい方は、一報下されば、録画したDVDをお貸しします。ただし、DVDプレーヤー(あるいはパソコン)がCPRM方式に対応していなければ、再生はできません。
 それでは、次回5/18には、残りの試訳をお目にかけます。それから、週末にはつぎのテキスト Roland Barthes <<La chambre claire>>をお送りします。同書を扱うのは二度目です(前回は2007年でしたか?)が、今回は、断章 29番以降を読みます。
Shuhei
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日本から発せられた黄信号と赤信号(1)

2011/04/21 19:57
  [注釈]
 
 * parti vert significatif : ここの significatif は、qui signifie clairement ということですので、「はっきりと環境保護を前面に押し出した政党」ということです。
 * L'explication de cette absence ne'cessiterait certainement de prendre en conside'ration de nombreux e'le'ments... Repe'rons parmi ceux-ci la pre'sence d'un sentiment.… : 日本に事実上緑の党が存在しない理由は、本来なら多くの要素を勘案して説明しなければならない (ne'cessiterait certainement ここの条件法現在に気をつけて下さい)。ここでは、そのなかから(parmi ceux-ci)、「ある感情や本能的な智恵」に注目したい、ということです。
 * On sait ici... On a ici : ici は、日本を、on は、日本人を表していることに注意が必要です。つぎの段落の nous en avons.. notre source... pour nous は、「私たち西洋人は」というニュアンスが感じられます。
 * cet e'pisonde : しばらく地球上にいた人類が消滅したこと。
 * sa re'cente survenue : 「自然が受入れたお客」ですから、すなわち人類のことです。
 * c'est une alerte verte : これは、次回以降扱う alerte rouge と対になっています。もちろん、vert --> rouge と警報の段階が上がりますから、une alerte verte は、「黄信号」と訳したらよいでしょうか。
 * c'est une toute autre affaire : autre とは、日本人の自然観とは「まったく別な」ということです。
 * un grand repre'sentant : parti vert significatif と、ほぼ同じことをくり返しています。

  [試訳]
 
  自然は、人類が制御しうると言い張れるわけもない、その恐るべき力を私たちすべてに思い出させた。日本には緑の党は事実上存在しない。その理由を説明するには、複合的に結びついた多くの要素を考慮しなければならないことは確かだろう。そうした要素の中でここではある感情、もっというと、経験によって培われた本能的な智恵を指摘しておくことにしょう。つまり、自然とは、もっとも強力な力であって、人間は塵に過ぎない、という考え方だ。
 地震、津波、時には台風などによって、愛すると同時に怖れもする自然と、私たちはつき合ってゆかなければならない。この地球から人類はあるいは消滅されかねないことも日本人にはわかっている。最近の議論によると、自然それ自身が自己破壊に手を貸していると考えられることも示唆されているが、むしろ自己破壊に勤しんでいるようにさえ見える、ぞっとするような印象さえ受ける。くわえて、人類がたとえ消滅したとしても、自然があとを継いで人類亡き後の歴史が書かれうるだろうことも、わきまえられている。そもそも何十億年もの間人類がいないのが自然にとっては当たり前だったのであり、その後人類という新参者のやりたい放題に自然は耐えて来たのだから。
 自然の側に立つことは、必ずしも人類のためであることを意味しない。自然が災害によって人類に敬意を促すのは、自然が無敵であるからこそであり、それは黄信号である。なるほど温暖化は人間活動がもたらしたものではあるが、自然の方は将来氷河期を迎えることも可能であろう。私たちの側が自然を必要とし、また自然は私たちの命の源であるからという理由で自然を大切にするのは、またまったく別のことである。たしかに自然は私たちにとって無害なものではないが、日本では大きな勢力とはなっていない緑の党が専心しているのは、そうした自然に対してである。
…………………………………………………………………………………………………………………
  先日、後輩のCくんから3月15日発売の「朝日ジャーナル」に掲載された辺見庸さんの論考のコピーをもらいました。「標なき終わりへの未来図」と題されていました。昨夏の酷暑、熱中症で亡くなった老人Aのことを、辺見さんは文章冒頭で語っています。死後遺体の直腸を検温したところ、39度もあったという、電気も停められたアパートの一室で死んだ老人についてです。
 「熱中症は気候変動の温暖化によるものでもあるけれども、つきるところ、貧困の問題であり階級問題そのものであった。直腸熱三十九度の闇は、昨夏すでに、階級間の矛盾が今後さらに拡大するだろうあきらかな徴として、老人Aの下腹部から世界に放射状にひろがっていたのだった。それに心づく者、感じる者は、けれど少なかった。」(p.7)そして、氏は絶望的な予兆を明かしています。もちろん、この文章が綴られたのは(おそらくは不自由な身体で、携帯電話の小さなキーをひとつひとつ確かめるように打ち込まれた言葉)、大震災の前であることまちがいありません。
 「貧しい者はよりひどく貧しく、富める者はよりいっそうゆたかになるだろう。すさまじい大地震がくるだろう。(...)テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になっていくであろう。ひじょうに大きな原発事故があるだろう。」(p.12)
  以前、不自由な身体をおして来阪されたおりの講演で、辺見さんは「沈思」という言葉をくり返しておられました。これらの言葉は、けっして予言などではありません。辺見さんが沈思する中で、その予兆をしっかり捉え、「心づかれた」のです。私たちは、そうした正確な、繊細な感覚を、思考を、持ちえなかっただけなのだと思います。
  他には、宇野常寛「『次ぎの50年』を設計する 『戦後』を正しく『忘れる』ために」を大変興味深く読みました。これは、先日紹介した小熊英二の主張にもつながる論考で、つまるところ、もう高度成長の夢は忘れようということです。歴史を知らず、あるいは知らない振りをして、したがって社会の変化にも鈍感なままに「あたらしい」、「元気な」を連呼する政治家たちは、みな「三丁目の夕陽」をいまだに夢見ているのです。
  この号の「朝日ジャーナル」、ぼくは古書も扱っているアマゾンで入手しました。
  さて、次回はde'nonce cette collusion. までとしましょう。5月4日(水)に試訳をお目にかけます。次次回は、わずかに残ったこの文章に何かおまけを付けて課題とします。
 Shuhei (今回録音は、sa re'cente survenue. までとしました。長くて、ここで息が切れました。)

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ジョン・バーガー「モネ、彼方の画家」(4)

2011/04/06 21:10
 [注釈]
 
 * d'autre chose appartenant a` l'infiniment extensif. : l'infiniment extentif 「無限に伸びゆくもの」= une substance indivisible 少し図式化すると、こういう構図になります。
 l'extentif ; substance ; e'ternel ; universel ; intemporel <--> instantane'ite' ; effets fugitifs ;local ; e'phe'me`re ; temporel
 * a` la fois de la perception me'ticuleuse (...) et d'une confirmation de cette percetion... : a` la fois A et B 「AとBと同時に」ただ、ここは難しくて、できれば元の英文を知りたいところです。
 大気という「被い」には、モネ本人の繊細な知覚と、「それと同時に」そうした一個人の知覚 cette percption を支えている、彼方 lieux sans adresse からの力が認められる、と言いたいのだと思われます。ただ、recue がどう働いているのか、果たして必要なのか、などがよくわかりませんでした。
 * de'ja` parfaitement imprime's. : ここは、アイリスを描くことの難しさ、つまり、どんなに完璧にその花弁の一枚一枚を描いても、その独自の運動、une manie`re particulie`re d'ouvrir はなかなか捉えきれない。そして、その運動までもを司っているのが、あのune substance なのでしょう。
 
 [試訳]
 
 モネは、自らが捉えようとつとめていた「瞬間」のことをしばしば話題にしていた。大気も無限に延長する不可分の実体の一部であるのだから、それは、そうした瞬間を永遠へと変えてしまうことになる。
 ルーアンの大聖堂の正面を描いた何枚もの絵画も、移ろいやすい光りの効果の証言であることを止めて、無限に延長するものに属する他のものたちとの応答のやり取りとなる。たとえば、大聖堂を「包み込む」大気は、モネの大聖堂に対する微細な知覚を含むと同時に、どこともしれないところからやって来た何かによって、そうした知覚が信認されたことも孕んでいる。
 積み藁を描いたいくつもの作品も、さまざまなものに呼応している。夏の暑気に満ちたエネルギーや、草を食む雌牛の四つの胃袋、川のきらめき、海の岩場、パン、髪の房、呼吸する皮膚の毛穴、ミツバチの群れ、脳みそ…などに。
 モネをふたたび訪れてみて、展覧会に足を運ぶ人々にその作品の中に見てほしいと思ったのは、限られた場所の、つかの間の証言ではなく、普遍的な、無時間的なものに開かれたさまざまな地平である。これらのどの作品にも見られる彼方は、時間に属するというより、延長に属するものであり、郷愁を誘うものであるより、隠喩的なものである。
 アイリスは、モネのお気に入りの花のひとつだった。描くのにこれほどの力量を要求される花は他にはない。その花びらを完全に描いてみせても、アイリスは実際独特の仕方でその花弁を開くからだ。その花々は、まるで預言のように、おだやかであると同時に人を呆然とさせる。おそらくは、だからモネはアイリスを愛していたのだろう。
…………………………………………………………………………………………………………………..
 4月3日日曜日の夜、今回の大震災を扱ったNHKのテレビ番組を二番組二時間続けて観ていました。突然襲われた災難に、堪え忍び、あるいは立ち向かっている人々の姿を、こちらは暖かい部屋でただ映像を通して見ているだけなのですが、だらしないことに、涙を抑えて画面を見つめ続けることは出来ませんでした。
 前回、小熊英二『私たちはいまどこにいるのか』(毎日新聞社)を紹介しました。そこには、冷戦時の、ある意味恩恵を受けた高度成長、そしてグローバル資本主義モデルの成功体験が、もう通用しない段階にこの社会がさしかかっていることを語った明晰な言葉が綴られていました。この本はもちろん大震災前に書かれたものですが、私たちの社会の有り様を今一度見つめ直す必要を説いていました。
 その主張と響きあう論考をご紹介しておきます。
 http://www.counterpunch.org/karatani03242011.html
 批評家の柄谷行人が、自身の出身地を襲った阪神淡路大震災と、その後に日本社会の取った進路を再考し、今次の大震災を経て、これから私たちが考えるべきことを示唆しています。
 
 それでは、次回からは、東京在住のフランス人が今回の大災害について綴った文章を読むことにします。週末にはテキストをお届けします。

 首都圏に在住のshoko さん、明子さん、雅代さん、ウィルさん、いろいろご不便、ご心配がつきないでしょうけれど、落ち着いた日常を取りもどせる日が早く来ることを祈っています。
 Shuhei


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ジョン・バーガー「モネ、彼方の画家」(3)

2011/03/23 10:45
 [注釈]
 
 * Sauf que ...et, qu'une fois peint,… : 筆者はモネの描いている l'air は、スピノザの思念する une pense'e を思わせると言うのですが、ただふたつのものには違いもあって、それがそれぞれ que以下だということです。
 * Le flux n'est plus temporel, mais substantiel et extensif. : ここは、前回扱った est-ce que le flux du temps ? Je ne le pense pas. からの展開です。
 ちょっとここで『エチカ』の一文を引いておきます。
「第一部 神について 定義 
 六 神ということでわたしが解るのは、無条件に無限な存在者、つまり無限に多くの属性でなっている実体であり、その属性の一つ一つが永遠でかつ無限な本質のあり方を表現する。」(佐藤一郎編訳『スピノザ エチカ抄』みすず書房)
 つまり、バーガーは、モネの描く「流れ」=「大気」を、スピノザの考える「神」あるいは「自然」ではないか、と言うわけです。
 
 [試訳]
 
  フェルメールは、オランダの哲学者スピノザとまさに同時代人であった。二人はともに光学レンズに関心を持ち、またおそらくは出会っていただろう。ただいかなる証拠もないけれども。スピノザ哲学の基本命題のひとつは、実体は不可分であり、すべては、その延長が無限である同じ実体の一部である、というものだ。第二命題は、スピノザが「思考実体」と呼ぶものと「延長実体」とは、唯一の同一のものであるとする。
  簡潔に表現されながらも刺激的なこうした命題に留意して、ふたたびモネに立ち戻ってみよう。すべてのものを包み込む大気は、連続性と無限の延長を示している。もしモネが大気を描くことに成功したのならば、あたかも思考を追うように、彼は大気を跡づけることができるはずだ。ただ、大気は言葉を発することなく漂い、一度描かれても、それは色彩や、タッチ、描き重ねられた絵の具の厚み、影、なぞられた跡、かすかな傷といったものにおいて目に見えるだけである。画家が大気の描出に迫るにしたがって、今度は大気の方が、画家と彼の元のテーマを彼方へと連れてゆく。モネの「流れ」とは、今や時間的なものではなく、どこまでも広がる実体的なものである。
  それでは、大気は画家とテーマをどこへ連れてゆくのであろうか。それは、大気が包み込んでいたもの、これから包み込むものとは別のなにかに向けてであろう。ただ、それに対して私たちはこれといった名を持ち合わせていない。それを抽象的に名指してみても、それは私たちの無知をさらすことにしかならないだろう。
…………………………………………………………………………………………………………..
  こちら、関西では大震災の影響は大変軽微なものです。非常に限られた物品などは品薄状態が続いている、と耳にする程度です。
  ウィルさん、ご丁寧にご連絡ありがとうございます。どうかお疲れが出ませんように、気をつけて下さい。
  バーガーの文章を読み終わったら、今回の東北関東大震災を報じるフランスの論説記事を扱うつもりでいます。大地震・津波が起きた直後の報道は、フランス発のものも大変同情的というか、激励の気持ちに満ちたものでした。ただ、Fukushima原発事故に焦点が移ると、その全体的なトーンは変化しました。
  たとえば、先週半ば過ぎには早々と「死者3万人」という数字を上げたり、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』とかけて、フクシマには「世界の終わり」が象徴されている、といった、とある文芸評論家の論評が発表されたり。また、北京から東京に呼び寄せたアラン・シャルロンというフランス・テレビジョンの有名特派員をOsaka に避難させ、そこから今でも日本レポートをさせています。
  村上龍は日本というアウェイで活躍する外国人の避難騒ぎに理解を示していましたが、ぼくは今回のフランスの姿勢には少し違和感を感じています。まあ、放射線の危険に身を晒してまで出張先で仕事などできません、というのは非常にフランス的ではあるのですが…。
  十五年の時を隔てて阪神淡路と今回の大震災を経験した日本社会は、今後やはり変わらざるをえないでしょうね。被災地域に最大限の支援を緊急に行いながらも、それと同時に、今度こそ、この社会の帰し方行く末をしっかり見つめ直さなければならないと思います。
  そのためにも、大変示唆に満ちた本を紹介します。小熊英二『私たちはいまどこにいるのか 小熊英二時評集』(毎日新聞社)
  小熊英二は、ご存知の方も多いと思いますが、ここ十年あまりのあいだに、つぎつぎと量・質ともに重要な著作を世に問うている社会学者・思想史家です。小熊からぼくがもっとも教えられることは、今の日本社会の移り行きを、明治の近代化以降100年以上のスパンで、統計と言説の精密な分析を通して見つめることです。今目の前で、ある風潮が支配的であり、あたかもそれが不変の真実のように思えても、それは世界の経済社会に組み込まれた、日本という社会の構造に起因する一時的、相対的なものであることが、小熊の著作を通して明らかにされます。
  同書に収録されているインタヴュー「"つながりの喪失" "経済中心"を超える」の一部を紹介しておきます。ニートということばに象徴されるように、2000年代以降大きくなった若者批判の声に、小熊はこう答えています。
 
  -- 「大人たち」の規範は、高度成長からバブル崩壊までの三十年あまりの間にできたものにすぎません。日本で求人倍率が一倍を超え、終身雇用が広がったのは、六十年代以降です。(…)いまの「大人たち」はそういう特殊な三十年しか生きた経験がないから、それが「あたりまえ」だと思っているかもしれません。(…)右に述べた規範を内面化している若者は、(…)就職がうまくいかなかったりすると「自分はクズなんだ」と思い込んで悩んでしまう。しかしそれは、ある特定の社会の、ある特定の時代にできた規範からちょっとはずれているというにすぎません。
  
 同書にはこういったインタヴューなどが多く収録されていて、大変読みやすいものとなっています。小熊社会学入門としてもお薦めです。
……………………………………………………………………………………………………
  それでは、「モネ論」次回は最後まで読み通しましょう。
  Shuhei


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ジョーン・バーガー「モネ、彼方の画家」(2)

2011/03/09 17:18
 [注釈]
 
 * lorsqu'il re'alisa soudain, alors qu'il la peignait,…: ここは、友人に打ち明けずにはいられなかったモネの「苦しみと衝撃」が何であったのを明らかにしなければなりません。il re'alisa soudain, alors que...、息絶えた妻の姿を「研究」し、「克明に書き留めていた」。そのことの突然の自覚が、モネの「苦しみと衝撃」でした。ですから、自分は本能のままに行動する la be^te だ、と言うのです。また、だからこそ一度「筆を置く」と、自分がさっきまで何をしていたのか、何を描いていたのか、わからなくなるのです。
 ただ、ぼくも、la bete qui toune sa meule この表現が一般的な慣用句なのか、どうなのかは突き止められませんでした。
 * dans la vie courante : langue courante 「普段の言葉」, un usage courant 「一般的な用法」ですから、la vie courante は、「普段の生活」のことです。
 * Leurs me'thodes pictuales ne sauraient e^tre plus diffe'rentes : savoir の条件法+inf. で、「…できる」。とくに、否定表現でよく使われます。ex. On ne saurait trop le souligner. 「そのことはどれだけ強調してもいい」, On ne saurait mieux dire. 「上手いこと言いますね」

 [試訳]
 
 モネのすべての絵画は流れに関わっている。けれども、印象主義の原理が想像させるように、それは時間の流れのことだろうか。私はそうは思わない。
 死の床にあるカミーユを描いてからしばらくして、モネは、妻を描きながら突然つぎのことに気づいた時の痛みと衝撃を友人のクレマンソーに語っている。その時自分はまさに、妻の血の気の失った顔を観察し、死がもたらした色やトーンの変化を克明に書き留めていたのだ。まるで普段の生活においてちょっとした事柄に目をとめるように。モネはこんな言葉でその手紙を締めくくっている。「これではまるでひき臼を無心にひいている獣のようだ。ぼくを哀れんでくれ、友よ。」
 モネが苦しくてならなかったのは、一度筆を置いてしまうと、自分が一体何をしようとしていたのか、キャンバスに走らせていた筆が自分をどこに導こうとしていたのか、わからなくなってしまうことだった。
 ある日モネは語っている。自分は事物そのものを描こうとしているのではなく、事物に触れている大気を、事物を包み込む大気を描きたいのだと。もう一人のヨーロッパの画家が似たようなことを企てていた。フェルメールだ。
 二人の画家の方法はこれ以上ないほど違うものではあろう。けれども、夢見ていたものはおそらく同じである。題材がそこに沈み込んでいるそのものを画布の上で捕らえること、題材を包み込んでいる、あるいは抱きしめている透明な大気のようなものを表現することである。
……………………………………………………………………………………………………..
 shoko さん、工藤・山田両先生の対談、楽しみですね。ぼくも住まいが首都圏だったら、是非参加したい催し物です。ちょっとわくわくするような顔合わせではないですか。後日、対談の内容が雑誌などで活字になることを切望しています。
 ウィルさん、「ふらんす」誌上で『失われた時を求めて』の対訳講座始まること、知りませんでした。ぼくは、どうしたわけか「ふらんす」の熱心な読者にはなれないのです。知りあいの同僚が連載を担当していたこともありますし、いろいろ教わることも多い、伝統ある雑誌なのに、年に何度か義務感に駆られて手にすることがある程度なのです。一体どうしてでしょう…。
 テキストの録音ですが、ぼくは、恥ずかしながら、専門的な発音矯正を受けたことがありません。留学中、親しくなったフランス人から、shuhei は、mais の「エ」のあとが伸びる癖があるね、とか、r は、もうすこし軽い発音の方がいいよ、などの指摘を受けたことがある程度です。ですから、アナウンサーや俳優といった言葉のプロに聞かせたら、きっと顔をしかめられる代物だと思います。その点、ご了承下さい。
 そろそろ、スギ花粉の飛散の最盛期なのでしょうか。今年は症状が少し軽くて済みそうだと高をくくっていた花粉症に、やはり身体が不調を訴えはじめました。目のかゆみから始まって、鼻水。それからどことなく頭・身体の「切れ」が、いつにもまして鈍くなって来ました。どうにかやり過ごすしかありませんね。どうか花粉症の方はお大事になさって下さい。
 それでは、次回は ignorance de notre part. までとしましょう。
 Bonne lecture ! Shuhei
 
 p.s. ごくたまにですが、下記で murmurer しています。お暇なら、のぞいてみて下さい。
  http://twitter.com/#!/hioki

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フランス語読解教室 III

2011/03/03 17:52
 ジョン・バーガー「モネ、彼方の画家」(1)

 [試訳]
 
 モネを見つめ直すとしたら、彼の作品のひとつが出がかりとなるだろう。「死の床のカミーユ・モネ」32歳で亡くなったモネの最初の妻だ。枕に頭をのせ、顔にはベールがかかっている。口や目は閉じているのでも、開いているのでもないが、肩は沈んでいる。色合いは、雪が降る小高い丘(枕)に沈む太陽の、青白い光りと影が織りなす色調だ。斜めに走る幾筋もの細い線に、筆遣いが見てとれる。死によって引き起こされた風雪を通して、私たちはカミーユの不動の顔を眺めている。死者を描いた絵の多くは私たちの思いを葬儀に向かわせるが、この絵はそうではない。旅立ちを、彼方への出立を主題としている。この喪の絵画は、見るものをもっとも揺さぶる作品のひとつである。
 カミーユの早過ぎる死の10年前に、モネは雪で被われた畑の一隅を描いている。画面の奥、一羽のカササギが、ちょっとした柵に止まっている。モネはこの絵を「かささぎ」と呼んでいた。私たちの視線は、黒と白のこの小鳥に引きつけられる。というのも、かささぎは画面の焦点となっているばかりか、今にも飛び立とうとしている様子がわかるからだ。まさに旅立とうとしている、彼方に飛び去ろうとしている。
 カミーユの死後1 年して、モネは、厚い氷に閉ざされたセーヌ河が雪解ける様子を何枚も描いている。それは、それ以前にも取り込んだことのあるテーマだった。一連の絵をモネは「解氷」と呼んでいた。画家は、厚い一枚の氷が割れ、とりわけ砕けてゆく様に魅せられていた。雪解け前には、氷は固く不動のままで、まとまった形をたもっていたのだが、今や、形を成さず、河の流れが氷をさらってゆく。
 流されてゆく、砕けた青白い氷のいくつかは、流れに浮かぶ真っ白い画布のように、私には思える。モネも同じことを考えなかっただろうか。そんなことは分からないだろうけれど。
 …………………………………………………………………………………………………
 今回は、7名もの方に訳文を披露していただきました。みなさん、いずれも正確な訳で、いつもの「注釈」としてこちらからとくに付け加えることは、困ったことに、なにもありません。「困る」こともありませんね。これぐらいの文章なら、的確に読みこなすフランス語読解能力を、それぞれお持ちなのですから。Bravo ! です。
 それで、今回も、最近手にした本の話をします。辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』(集英社)を最近読みました。これもよくある東大ブランドグッズなわけですが、その中身は、小説というものの誕生と生成、とくにこの日本における近代小説の誕生(「第二講義」)を、実作の具体的な分析を通じて論じた、大変読み応えのある講義録でした。くわしくは、池澤夏樹さんの書評をご参照下さい。
 http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2011/02/20110206ddm015070006000c.html
 上記の書評で、池澤さんはあの『悪魔の詩』を扱った「第八講義」がもっともおもしろかったと述べていますが、ぼくももっとも強く引き込まれたのは、この部分でした。同作品は、筑波大学の英文学者でもあった翻訳者五十嵐一氏の何者かによる暗殺によって、日本ではそのタイトルを記憶に刻み込まれた人も少なくないはずです。これは当時のイランの指導者によって冒涜の書として激しく糾弾された小説でした。
 そのことに関連して、辻原はこう書いています。フィクションを綴ったことを許されない罪と看做すことは、現代人にとってはまさに狂信的行為ではないか、という疑問に対して、こんな問題提議をしてます。
 「しかし、どうでしょうか、どこか全感覚で得心できるような物語を持たなければ、人間としての生存、つまり、言葉、精神的存在が危うくなる。それが我々人間という存在です。そういう意味では、イスラムの人たちこそ言語の真実のそばにいると言えます。
 ラシュディの『悪魔の詩』というテキストは、イスラムの起源のテキスト、コーランをからかいの対象とすることによって、イスラムの起源というフィクションを揺るがした。(…)この起源を否定したり、壊すためには、もうひとつの起源の物語を、言葉、パロディという形でつくってそれを揺るがすしかない。
 フィクションは、まじめに受け取るべきセンセーショナルナ真理を含んでいるということ。このことを肝に銘ずべきなのです。」(p.311-12)
 この問題を「死」への問いと著者は結びつけます。
 「私がこの世に現れたのは偶然です。しかし、私の死は必然。私は死を逃れることができない。だからこそ謎を構成する。偶然と必然、この両端の間に人生がある。(…)死を謎として設定したとき、その解を求める心が現実を[つまりは、フィクションを: shuhei 注]構成します。真理と真実は現実の中にあり、それはいくつもあるのではなく、たったひとつです。我々は、真理や真実を捕まえたいと思っている。そのために物を考え、生き方を考えています。」(p.313)
 実は、この本に続いて、本棚にしばらく放置してあった高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)を読んでいます。この本の大部分は、とくに断られていませんが、もとは東京都内の某大学で行われた講義が元になっているようです。そして、日本近代文学誕生に際してのフタバテイの創造行為の意義の再確認など、辻原の『東京大学で…』で扱われたテーマと深い類縁性が見られます。
 そして、「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」と題された章(これは子供たちの死生観を探るために用意されたアンケート項目を章題とした物です)では、ここでも死、特に戦後文学といわれる作品群と死というテーマの関係を辿った上で、古井由吉『野川』の画期的意義が論じられています。
 「わたしの考えでは、『ニッポン近代文学』の『文』や『文法』は、『死』や『死者』を描くことに失敗しています。というか、それらを描くことを回避することによって成立しています。(…)
 この『野川』という、言葉の真の意味で冒険的な作品の中で、作者は、『死者』に近づく『文法』の可能性を探っています。(…)
 我々は、なによりも、我々の『生』に興味を抱いています。そして、『死』や『死者』を描ききれないなら、その反対側に存在している『生』も描きえないことは、明白なように、わたしには思えるのです。」(p.146-7)
 実は、古井由吉はぼくのもっとも敬愛する、もっとも親しんできた作家であり、また同書は、勉強に身が入らなかったある年の(毎年のことなのですが)の夏、味読していた作品であり、たしかおなじその夏にこの教室を始めたのだと記憶しています(でもひょっとしたら、それは同じく古井の作品『辻』を読んでいた夏のことかもしれませんが…)。
 さて、次回は、ou e'treigant leurs sujets. までとしましょう。3月9日に試訳をお目にかけます。

 初めての試みですが、今回読んだテキストの第一段落のみ朗読音声を添えてみました。
 
 よろしければ聴いてみて下さい。
 Shuhei
 

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