フランス語読解教室 III

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zoom RSS ロラン・バルト『明るい部屋』(1)

<<   作成日時 : 2011/06/02 16:18   >>

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 [注釈]

 * dans la Mort a` reculons : a` reculons は、文字通り「あとずさりして」ということです。だから、過去を遡って死を控えた人間の前方には、自らの過去が伸び広がっているわけです。
 * c’est alors aussi que tout basculait...: ここの basculer ですが、プルースト『ソドムとゴムラI』「心の間歇」の <<Bouleversement de tout ma personne>>を踏まえていると考えられます。
 * (de l’ordre des photos) : ordre は、なかなか厄介な多義語なのですが、ここはParti de sa dernie`re image
(...) arrive’(...) a` l’image d’une enfant とありますから、「順番」のことでしよう。
 * elle e’tait devenue ma petite fille : 写真の中の5歳の女の子のように、ということでしょう。


 [試訳]

 つぎのことも私の思索から外すことは出来なかった。つまり、時間を遡ることによって、私がこの写真を発見したということ。古代ギリシア人たちは後ずさりながら死の世界に入っていった。彼らの前に横たわっていたのは、彼らの過去だったということになる。そんなふうに私も一生を、私のではなく、私が愛していた人の一生を遡ったのだった。死を控えた夏に撮った母の最後の写真(ひどく憔悴していたが、凛として、私の友人たちに囲まれ、家の玄関の前で座っている)から始めて、75年を遡り、私はひとりの女の子の写真に辿り着いた。子供の持つ、あるいは母の、子供でもある母の、至高善に向けて私は目を凝らす。確かに、私は母を二度失った。最後の疲れ果てた母と、母の初めての写真、私には最後の写真に写った母と。けれども、まさにその時すべてが転倒し、ついにその存在そのままに、私は母を見出したのだった。
「写真」のこうした(写真の新旧による)運動を、私は身を以て体験した。母は晩年、私が母の写真を見つめ、温室の「写真」を発見する少し前、とても衰弱していた。私も母の衰弱を共にしていた(活動的な世界に加わったり、夜外出することも出来なかった。どんな社交もうんざりだった)。母が伏せている間、私は母を見守り、母のお気に入りのお茶用のボールを口元の運んで上げた。母が飲むには、カップよりも具合が良かったからだ。母は私の小さな娘となっていた。母が初めて撮った写真のままの、本質的な子供とひとつになっていた。
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 今日は、少しフランス語とは直接かかわりのない話題に触れることにします。こうした「政治的」なお話を好まない方もいらっしゃると思いますが、どうかご勘弁下さい。
 元タレント弁護士の橋下徹さんのことはみなさんも多分ご存知だと思います。今大阪府民の強い支持に支えられている大阪府知事です。彼がトップを務める「大阪維新の会」という地域政党が、今その多数を占める府議会で「国旗掲揚・国歌斉唱時に公務員に起立・斉唱を義務づける条例」を制定しようとしています。「君が代を歌わないことは許されない」ということを条例で定めようというのは、全国初めての取り組みだそうです。ぼくは、政治的にはまったく微温的な態度しか取れない軟弱フランス屋ですが、大阪維新の会のこの取り組みをただ黙って見過ごすことはできませんでした。
 先日、教職員労働組合の方が多数を占めると思しき集会に、生まれて初めて参加しました。その場では、「日本人を止めろ! 日本から出て行け! 北朝鮮で教師をやれ!」と、割れんばかりの大音響で右翼団体からたっぷり罵声も頂戴しました。帰り際、ディドロを専攻しているK先輩とばったりお会いして、夕食をご一緒してもらいました。
 以下は、地域政党大阪維新の会に宛てたぼくの「ご意見」です。ちょっとためらいはしましたが、実名で小文を送りました。どうか「非国民」だといじめられませんように。
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 音の調べに声を預ける、本来はどこまでも自発的であるべき「歌う」という行為を、その人の身分を奪ってでも強制する。こんな粗暴な権力の行使があるでしょうか。それを知事は子供たちが主体であるべき、教育の場で行おうとしている。そんなことは、許るされるべきではありません。
 公立学校の教師たちは、市民からの税金によって給与を得ている公務員であるから、組織の論理にしたがうべきだ、そう仰るでしょうか。先生たちの主体性が、組織の論理の前で踏みにじられる。知事、ことは教育にかかわることです。教育は、マネイジメントの論理だけで機能する人間の営みではないことぐらいは、知事もお分かりのことと存じます。健全な批判精神を持って大勢に順応しない、そんな、数少ない先生方の主体性を「数の、組織の論理」によって潰してゆけば、教育の本質は蝕まれ、ただ円滑に機能するだけの空虚な組織体だけが残ることになります。そんなところからは、「空気」だけには敏感に反応出来る、ロボットのような臣民が生まれても、健全な公共意識を持った子供は育ちはしないでしょう。
 たしかに近代国家の誕生に際して、教育と軍隊が手を携えて「臣民」を育成して来たことは歴史的な事実です。けれども、あの悲惨な戦争を経験した私たち日本人は、軍に代表される組織の論理を、時には相対化し、批判する、聡明な子供たちを育む教育を、戦後実践して来たはずです。
 「長いものには巻かれろ」、そんな小賢しい論理が大手を振る場に、学校をしてはなりません。今では少数となり、それでも苦悩しながら「立たない、歌わない」大人の姿を見て、歴史とは、公共とは、個人とはどうあるべきなのか、そうしたことをめぐって考えを深める子供たちをこそ、私たちは育てなければならないのではないでしょうか。
 橋下知事、どうか多勢の力に溺れずに、風通しのよい社会で育つべき子供たちのことを考えて下さい。
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 あの国際的な学習到達度調査(2002)で明らかになった「学力低下」騒ぎに触れてのこんな一文に、深く頷かずにはいられませんでした。「『みんなと同じことを最優先に配慮し、みんなと違うことを心から恐怖する子供』を作り出すシステムを徹底に精緻に高度化して来た長年の努力の成果が『世界一勉強しない子供たち』なのである。(...)みんながそうしているからそうしている(...)そういう骨の髄まで他者志向の子供たちを日本社会は作り出して来た。」(p.34,38. 内田樹『街場の大学論』角川文庫)
大阪も肌寒い水無月を迎えました。明子さん、misayoさん、Mozeさん、雅代さん、それから「教室」をのぞいてくれているみなさん、どうか体調を崩されないようお身体には気をつけて下さい。それでは、次回6月15日に断章29を最後まで読むことにします。


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